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⑮洛陽四十八願所 第十五願 光明寺 ~鎌倉武士と阿弥陀如来の不思議な関係~

京の寺社めぐり
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「洛陽四十八願所」の第十五願は「光明寺」です。今出川通より北の寺町通には4つの札所が飛び飛びで並んでいます。その中で光明寺は北から2つめとなっています。

巡礼「洛陽四十八願所」について知りたい方はこちらでどうぞ。

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実際お参りした記録を見たい方は「3.いざお参り!」まで飛んでください♪

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1.第十五願 光明寺について

<第八願 石像寺>

宗 派  浄土宗
寺院名  雲祥山 光明寺
所在地  〒602-0802 京都市上京区寺町通今出川上ル五丁目鶴山町
本 尊  阿弥陀如来
御朱印  無し
サイト等 無し

予 約  拝観不可

最初に書いたように、このお寺は寺町通に面しており、この界隈には四十八願所の札所になっているお寺が4つ並んでいます。秀吉の時代にそれぞれ違う場所から配置されたもので、巡礼も北から順番に番号が振られてます。よってこの巡礼は、「ここに移転させられてから成立したものである」ということがわかりますね。

また最初に書いておきますが、実はこちらは拝観ができません。今回お訪ねさせてもらったときも、中にあげていただくことはできませんでした。

しかし光明寺さんの阿弥陀如来様はとても由緒ある仏様です。なのでうちの先祖が見た仏様がどのような方なのかを記しておきたいと思います。

光明寺さんのデータは、寺院関連の資料やネットを調べてもなかなか出てきませんでしたが、わかる限りのことを書いてみましたので、札所情報としてご覧いただければと思います♪

あや
あや

いや、こういうお寺さんもあるし、仕方ないやんなぁ♪

①歴史

光明時の開山は性誉宗鎮上人という方です。いろいろと調べてみましたが、お寺の歴史としては

天文5年(1536年)に性誉宗鎮上人が現在地に光明寺を創建した。

ということ以外、記述が出てきませんでした(典拠:京都通百科事典)。

光明寺 左に見える建物は別のお寺
地元密着。地元氏神様へのお神酒奉納の紙が貼り出されています。

写真の門の左奥にある建物は北隣のお寺のものです。光明寺さんはこの門の幅をまっすぐ伸ばした長方形の寺領となっています。寺町通には、四角い寺領がぎっしり並んでますね♪

門前には由緒が書かれることもなく、ひっそりとした佇まいのお寺です。

光明寺さんについての記述は少ないながら、巡礼の目的であるご本尊さんにはいろいろと貴重なエピソードがあるので、次の章で詳しく解説してみようと思います。

②仏像・墓など

1)抱止(留)阿弥陀如来の不思議な由来

光明寺には、さすが四十八願の中に入るだけのことはある「すばらしい仏様」がおられます。名前は

抱止(留)阿弥陀如来だきとめあみだにょらい

とても古い仏様で、お寺の創建からさらに300年以上もさかのぼる歴史があるんですよ♪
語り継がれるそのエピソードとは…

仁治2年(1241)11月22日、実信房蓮というお坊様が京都西山の庵で寝ていると、不思議な夢を見ました。蓮生さんが山の中をさまよっていて空を見上げると、空中に阿弥陀様がおられるのです。蓮生さんが「どこから来られたのですか?」と尋ねると、阿弥陀様は「善光寺から」とおっしゃったそうです。

善光寺さんの阿弥陀様というと、誰も見たことが無い拝観できない仏様。本当だとするとすごいことです!

しかし蓮生さんが目を覚ますと、なんとそこには1m弱(3尺)の阿弥陀様がおられたのでした!リアル阿弥陀様ですね。私なら腰抜かします。しかし蓮生さんはお念仏をあげながら仏様の手を取り、抱き止めて自分の袈裟を掛けたのでした。


それで、そこからこの阿弥陀様のことを「抱止だきとめ(留)阿弥陀如来」と言うようになったとのことです。

ということは、この阿弥陀様は約800年の歴史を持っておられるということですね。が、また一方で、阿弥陀様は慈覚大師円仁さんの作とも言われています。そうなるとまた350年以上歴史がさかのぼってしまうのですが…まぁとにかく歴史のある阿弥陀如来さま、ということで良いのではないかと思います^^;

あや
あや

古い仏さんほど、いろんな由緒とか縁起を持ったはることが多いように思うえ。

その後の阿弥陀様ですが、高野山光明院に移して祀られたそうです。そして天文5年(1536年)に、性誉宗鎮上人が現在地の光明寺を開かれた時にご本尊として祀られたのでした。

さてこの仏様、めっぽう火に強いお方のようで、高野山光明院で室町時代に火災があったとき自ら土に潜って火を避けられたとか!また江戸時代、天明の大火が起こった時や兵火の災難があっても傷一つ付かなかったとのこと。これはいっそのこと「火除け」のご利益があってもいいのではないかと思ってしまいました^^実際はそんなことは言われてないのでご注意を^^;

2)実信房蓮生さんの人生も波瀾万丈?!

さて、この仏様を感得されたという実信房蓮生さん、結構な山あり谷ありの人生を送っておられるのでちょっと触れておきましょうね。

実信房蓮生は承安2年(1172年)に生まれ正元元年(1259年)に亡くなった人物です。下野国(現在の栃木県)の豪族・宇都宮市の第5代当主となりました。ちょうど源頼朝と同時期に生きた人ですね。

鎌倉幕府執権となった北条時政の娘と結婚、頼朝や北条氏とも関係を深めたのですが、1205年(元久2年)には謀反の疑いを掛けられ、潔白を証明するために出家しました。そして上洛し法然上人に帰依、証空の弟子となり西山の小倉山山麓に庵を結びました。「抱止の阿弥陀如来」と出会われたのはそのころだったのでしょうか。

また、蓮生さんは藤原定家に和歌を学び、娘は定家の息子・為家と結婚し縁を深めました。そして小倉山山麓にある自分山荘を飾るために、定家に100首の和歌を書いた色紙作成を依頼したことが、小倉百人一首の始まりとなったとされています。

武士としてはかなりの良い位置にいたのに、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のような策謀の渦に巻き込まれ、人生の後半は僧侶として京都で穏やかに過ごした蓮生さん。その名は「抱止阿弥陀如来」とともに語り継がれてきたのでした。

*参考:光明寺 京都通百科事典京極れきし再発見70Wikipedia「宇都宮頼綱」

2.いざお参り!

さて、最初にも書いたように、残念ながら光明寺さんは拝観ができません。

なので、伺ったときには四十八願でお参りに来たことを話し、こちらの札書きのコピーをお渡しして、外側からですが阿弥陀様に手を合わせてきました。

いろいろな習い事の教室をされているようなので門は開いています。しかし通っている方の安全を担保するためにも、見知らぬ人間が入ることは禁じておられるように見えました。でもそういう理由ならば仕方ないですよね。ましてや知らない人を危険視する現代では、今後ますますそういうお寺は増えていくような気がします。

光明寺真正面 習い事教室貼出し
右側には車の出入り口が開いていますが、勝手に入らない方が良いと思います。

私の先祖がお参りをしたのは約200年前。その間には大きな時代の変革があり、お寺さんたちもまた昔とは全く違う状況に置かれていますから、お参りが変わりなくできるほうが奇跡なのかもしれません。

3.御朱印

拝観されていないということで、御朱印はありません。

4.阿弥陀如来の誓願

阿弥陀如来の誓願の15番目は、ご紹介しておきましょう。

第十五願 「眷属長寿けんぞくちょうじゅ

自らが成仏した国土(極楽世界)の人天(人間・天人)の寿命に限りがないようにしたい、という願。

参考:新纂浄土宗辞典

5.寺への道のり

*地図が見えにくい時は地図上をクリックしてください。

住所表記は「京都市上京区寺町通今出川上ル五丁目鶴山町」。

寺町通に面していて、今出川通から北へ5つの横の通りを越える、という意味です。現在寺町通(縦の通り)を突き抜けている横の通りは無くて、寺町通で止まっている通りは4,5本あることから、まぁ大体正確な住所表示かなと思います。

京都の住所表記法については「第一願 聖徳寺」の京都の住所表記について


既に2回書いているように、この並びには他に3つの札所があり、順番でいうと次とその次がまだこの通りにはあります。めげずに頑張りますよ!

次は16番目、第十六願の阿弥陀寺です。「ある武将つながり」で大変有名なお寺です♪

光明寺の前はこちら。

西園寺(まだお参りできてません)
あや

ご先祖さんより京都・上京区に300年以上居住しています。細かな習わし事まで続けてきた先祖の行いを受け継いで、私も京都の年中行事やお祭が大好きです。京都に住んでいる方・京都が好きな方に、知って役に立つ、また他所では教えてもらえない京都情報をお伝えします。

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