祇園祭が近づいてくるとあちこちに山鉾が立ち並び、にぎやかになってきます。
たくさん山や鉾があるよね。一体いくつあるの?
ここしばらくは33やったんやけど、2年前から鷹山が復活して34になったんえ。応仁の乱より前は60もあったて聞いてるえ。
え~!今の倍だね!どんな鉾があったんだろう?
あ、そうそう、1つ、面白い鉾があったんえ。今も半分だけ残ってるわ!
えっ、半分って…???
半分残ってる?おかしな鉾ですよね。今回はこの「半分残ってる鉾」についてご紹介したいと思います。
これは以下のような方におすすめです。
・昔の祇園祭について興味のある方
・現在残っている部分を知りたい方
・実際に残っている部分を見に行きたい方
鉾の半分を上演する開催日時と場所は最後にありますが、内容を把握してからご覧いただければと思います。
ではご紹介していきましょう。
1.650年前にはあったのに、応仁の乱後消えたのは「何鉾」?
「半分残っている鉾」と不思議な表現をしましたが、まずはこの鉾は何という名前だったのかご紹介します。
①鉾の名前と形状
それは「鵲鉾」という鉾でした。
江戸時代の記録「祇園会山鉾事」にも応仁の乱(1467~1477年)の前に巡行していた鉾として記録に残っています。そして応仁の乱後には忽然と消えてしまった鉾でもあるのです。
また、その存在はすでに貞治4年(1365年)には記録されており*、そうすると650年前にはすでにあったという古い鉾ということになります。
形は、今の綾傘鉾のような傘鉾が1つ、そして傘鉾に付随していた鷺舞とセットになって「鵲鉾」を形作っていたようです。
つまり、傘鉾・鷺舞どちらも鵲鉾の半分ということです。まずはここを押さえておいてくださいね。
*河内将芳氏「室町時代の祇園祭」
②誰が出していたか?
これも記録に残っており、のちに西陣織を作り出した「大舎人座」です。氏子でないし、遠いところから出してますね。
大舎人座の人たちは、平安の昔、織部司において朝廷で用いられる織物を織っていた人たちでした。その人たちは織部司の東隣にあった大舎人町に住み、自分たちで集団を作りその伝統技術を継承していたのです。
時代は下り、応仁の乱中は堺に逃げて新たな織の技術を得て乱後京都に戻り、西陣織の基礎を作りました。
その人たちがなぜ祇園祭に鉾を出していたかは諸説ありますが、とにかく大舎人座が鵲鉾を出していたこと*は間違いがないとされています。
*正確に言うと、大舎人座の傘鉾と北畠の鷺舞からなっています。(前出:室町時代の祇園祭)
③ユニークな名前の由来
しかしちょっとおかしなことに気が付きませんか?
「かささぎ」鉾なのに「さぎ」舞を連れているのは変だね。
なんだか正解とも間違いとも取れるニアミスな名前は気持ち悪いですよね。
しかし、これは間違ってないのです。
先に、2つセットで「かささぎ」鉾だと書きましたよね。
これは
傘鉾 + 鷺舞 = かさ・さぎ
2つあわせて「かささぎ=鵲」ということになっているのです。
はい、ダジャレですね^^
「え~そんなんでええの~?」って思われるかもしれませんが、昔の人もダジャレが好きだったみたいなんです。
江戸の例ですが浮世絵「江戸判じ物」の中に絵解きのなぞなぞが描かれています。
たとえばこんなもの。
・葱を4本描いて 「ねぎ+4(し)」 → 「ねぎし=根岸」
・頭が「蔵」の人が舞っている 「蔵+まい」 → 「くらまえ=蔵前」(やや苦しいかw)
そういえば、平安時代の和歌の「掛詞」も言ってみればダジャレのようなもの。これは日本人の性でしょうか笑
しかしどうしてこんな回りくどい表現をしたのでしょうか?
皆さんは「カササギ」どんな鳥かご存じですか?
こんな鳥なんですよ。
実は本当のカササギは白くないんです。どちらかというと黒い鳥!
実は当時、京の人々はカササギの姿を知りませんでした。なので、傘と鷺を用いて鵲を表すしかなかったのです。
では昔の図に描かれたなかで鵲鉾の「傘」と「鷺」を見てみましょう。江戸時代の「年中行事大成」には「室町時代の祇園会」図があり、そこには傘鉾と鷺舞が一緒に巡行するさまが描かれています。。
ここには3つの「傘」と「鷺」の組み合わせがあります。わかりますか?
1つ目は傘鉾と鷺舞という大きな組み合せ。2つ目3つ目はそれぞれの中で作られている組み合せです。
2つ目と3つ目は芸が細かいですね~♪ここまでのこだわりっぷりには脱帽です!
④鵲鉾は何を表している?
さて、この鵲鉾、ここまでしてカササギを表現して、いったい何を表しているのでしょうか?
ヒントは2つあります。
1)傘鉾の上にある鵲橋。
傘鉾にある橋の上には鷺が留まっていますが、この鳥には傘が付いてますから「鵲」を表しているのでしたね。
これは七夕に牽牛と織姫が会う時に渡る橋を表しています。その橋はカササギが羽を並べて作ったと言われています。
そう、つまりこの鉾は七夕の伝説を形にしているのです。
2)これを作ったのが、機織りのエキスパート集団である大舎人座であること。
そしてこれを作ったのは機織り集団の大舎人座。おそらく彼らが信仰していたのは織姫か、織姫に近い神であったでしょう。
あくまで私の推測ではありますが、彼らは自分たちの崇拝する神を鉾に乗せて巡行したのではないか、と思うのです。
現在、大舎人座の子孫ともいえる西陣の機織り業者は、今宮神社の一角に「織姫社」を祀っています。その神様は機織りの神である「栲幡千々姫命」で、七夕に出てくる織姫に機織りを教えたと言われています。この神様が、鵲鉾の神となんらかの関係があるのでは、と思うのは飛躍しすぎでしょうか。
今宮神社の織姫社についてはこちらの記事をどうぞ。
2.消えた鷺舞が復活するまで
先に書いたように、鵲鉾は応仁の乱後はパッタリと姿を消しました。傘鉾の形態のみは綾傘鉾や四条傘鉾が受け継いでいるとはいえ、鵲鉾の残り半分である「鷺舞」は祇園祭からは形も何もなくなってしまったのです。
では、この鷺舞はその後どうなったのでしょうか?
①現代にいたる鷺舞の歴史
650年前の祇園祭における鷺舞とは、鵲鉾の半分のパートを担う舞でした。
応仁の乱以前には後祭(6月14日)の巡行に参列をしていました。絵にあるように、鷺の恰好をした人2名が傘鉾の前を歌いながら舞っていたようです。
乱後は祇園祭には参列しなくなったのですが、お正月の左義長*の折、朝廷で舞われていた様子が室町時代後期の絵に描かれています(月次風俗図扇面流し屏風)。しかしその鷺舞の鷺の頭には傘は付いておらず、鵲として舞われていたのではなかったようです。
その後、一度は昭和半ばに神輿渡御の中に参加するという形で復活していましたが、2000年代に入りいつしか途絶えてしまいました。
現在は形を変え、子どもたちが「鷺踊り」としてお迎え提灯行列に参列しています。これも復活された鷺舞ということはできます。ただ、子どもたちがかぶる鷺の頭には傘がついていますが、曲調が違い鵲鉾の鷺舞とは一線を画しているように思えます。
そこで、昔のような鷺舞を復活させようと有志の人たちが、昨年(2023年)から活動を始めました。今年も披露されるので、今回日時をご案内するのはこの方たちの鷺舞です。それはまた後の章でご紹介しますね。
*毎年小正月の1月15日に、正月のお飾りや古札を焚く神事。(京都観光Navi)
②鷺舞の歌
鷺舞を見るにあたって知っておいていただきたいのは、舞う時に歌われている歌です。ご紹介するのは京都の鷺舞を参考に作られたという津和野の鷺舞の歌ですが、これを見ると鷺舞はあきらかに七夕をテーマにしたものであったことがわかります。
京都の祇園祭では応仁の乱以来途絶えていましたから、津和野の鷺舞が江戸時代に持ち帰った歌というのは、左義長などで歌われていたものだと思われます。それを逆輸入して復活させたのが今の祇園祭の鷺踊りであり、今回ご紹介する鷺舞です。
津和野鷺舞の歌
はしのうえにーおりたー
「傘鉾・風流傘の誕生2-風流傘と鵲鉾-」 段上達雄
とりはなんどーりー
かー(わ)ささぎーの
かー(わ)ささぎーの
やーかー(わ)ささぎ-の
さーぎがはーしをわーたした
さーぎがはーしをわーたした
しぐれのあめにー ぬれとーり とーり
やーかー(わ)ささぎーの
さーぎがはーしをわーたし(い)た
さーぎがはーしをわーたし(い)た
(橋の上に降りた、鳥は何鳥か、鵲の、鵲の、やー鵲の 鷺が橋を渡した 鷺が橋を渡した、
時雨の雨に、濡れ鳥、鳥、やー鵲の 鷺が橋を渡した 鷺が橋を渡した)
歌詞は「鷺」だったり「鵲」だったり統一されておらず、これだけ見たのでは何の歌かわかりません。
単に「鷺が橋を渡した」では意味が通じないけれど、「鵲が橋を渡した」なら、「牽牛と織姫のために」渡したことがはっきりとわかりますね。
そのためには、鷺の頭には必ず傘を付けておくべきでしょう。実際津和野の鷺舞には傘はついていませんが、鵲鉾由来である祇園祭の鷺踊りには傘が付けてあります。
3.鷺舞の行われる日時・場所
前章の鷺舞の歴史のところで書いた「昨年から有志で復活させた昔の鷺舞」ですが、今年も演じられることになったので、見ることができる場所をご紹介したいと思います。
これは正式に祇園祭の中には入っていないものですが、「神賑わい」として舞われることになっています。神様は賑やかなのがお好きなのです♪
月日 | 時間 | 場所 |
---|---|---|
7月14日 | 1回目 19:45 練り歩き 20:00 鷺舞 2回目 20:45 練り歩き 21:00 鷺舞 | 白楽天山 会所前 |
7月16日 | 1回目 19:30 鷺舞 19:50 練り歩き 2回目(仮) 20:30 鷺舞 20:50 練り歩き | 南座前 |
上演時間は10~15分ほどなので、遅れて来られると終わっているかもしれませんm(_ _)m
ただし今年は練り歩きがあるので、多少は時間の余裕がありそうです!
16日の南座前の2回目上演はまだ時間が未定です。
決まり次第確定の時間をお知らせしたいと思います。
そしてこちらはもちろん無料です。念のため!
この鷺舞を消え去った鵲鉾の残り半分として、650年前を偲びご覧になっていただきたいです!
4.アクセス
7月14日 | 白楽天山会所前 | 京都市下京区室町通綾小路下ル白楽天町528 |
7月16日 | 南座前 | 京都市東山区中之町192(四条大橋東詰) |
5.まとめ
・650年前にあったのに、応仁の乱後消えたのは「何鉾」?
鉾の名前は「鵲鉾」、傘鉾と鷺舞のセットとなっています。
のちに西陣織を創り出した大舎人座の人々が鉾を出していました。
「かささぎ鉾」の名は、「傘」鉾と「鷺」舞の名を足して表現しました。当時の京都の人たちはカササギを知らなかったので、こういう表現の仕方をせざるを得なかったのです。
鵲鉾は牽牛と織姫を渡した橋となったカササギから七夕を表し、大舎人座の職である織物の神様をお祀りして巡行していたのではないか、と推測しました。
・消えた鷺舞が復活するまで
応仁の乱までにはあった鵲鉾は乱後には姿を消してしまいました。しかし江戸時代、左義長の中に鷺舞があったことが当時の屏風に描かれています。祇園祭としてはずっと消えていた鷺舞ですが、昭和半ばに一度復活、また途絶えたのち、2000年代になって子どもたちがお迎え提灯行列内で行う「鷺踊り」として復活しました。
ただ、応仁の乱前にあった鷺舞とは趣が異なるため、昔のような鷺舞を復活させようとした有志の方たちによる鷺舞が、今年も行われることになりました。
その時に歌われる鷺舞の歌もご紹介しています。
3.鷺舞の行われる日時・場所
今回の鷺舞は神賑わいとして宵山他2日にわたって白楽天山の会所前と南座前で行われます。
雨天の場合中止です!
今回は650年前にあった、そして応仁の乱後消えてしまった鵲鉾とその半分の要素を持つ鷺舞についてご紹介しました。祇園祭好きな方の有益な情報になれば嬉しいです。
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