廬山寺に行く前に知っておきたい歴史とキーワード~「光る君へ」紫式部ゆかりのお寺~

光る君へ
例年11月下旬~12月上旬が見ごろ。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では紫式部が主人公なので、紫式部の邸宅跡に建てられたと言われる廬山寺に行く方も増えていくでしょう。でも、知ってるのはそれだけで、どんなお寺かよく知らない方がほとんどだと思います。

せっかく行くならこの美しく品格高い廬山寺を存分に味わっていただきたい。なのでこれさえ読んでおけば大丈夫、と言えるような知識をお伝えしたいと思います。

歴史の基本をまず説明して、次にキーワード別に説明しますね!

この記事はこんな方に読んでいただきたいです♪

紫式部邸のことを知りたい方
廬山寺のことを最低これだけは知っておきたいという方。
廬山寺は知っているけど、せっかく行くのだから、さらに大切なことを知っておきたいという方。

他の人に説明するときに「ここは大事!」「これは一般的にはあまり知られてない」ことを話したい方。

このサイトでは京都に先祖から300年以上住み続けている「あや」が、「ほんまもんの京都」「知ってると得する情報」「京都人でもほとんど知らないトリビア的情報」をお伝えしています。どんどん増やしていきますので、ぜひブックマークよろしくお願いします!

1.廬山寺の歴史

廬山寺門外から

まずは廬山寺の歴史について説明しましょう。赤のアンダーラインの言葉は、次の「廬山寺を知るキーワード」のところで解説しています。

*廬山寺のサイトと拝観の時にいただく説明書で表現が少し違うところもあったので、両方を参考にさせてもらいました。

①平安時代:元三大師が與願金剛院を開く。

天慶年間(938年~947年→平安時代中期)平安時代中期、比叡山天台18世座主(ざす)元三大師(がんざんだいし)良源によって、船岡山の南に「與願金剛院」が創建されたのが始まりです。今とお寺の名前が違いますね。

紫式部は諸説ありますが970年代に生まれたと言われており、生まれたとき既にお寺は建ってましたから、このときはまだ紫式部のお父さん(藤原為時)やお祖父さんの邸宅は、今のお寺のある地にあったということになります。

ではいつここにお寺がやってきたのか、歴史を進めましょう。

②鎌倉時代:覚瑜が出雲路に蘆山寺を開く。

寛元3年(1245年→鎌倉時代中期)、廬山寺は、法然上人に帰依した住心房覚瑜上人により出雲路に再興されました。

③南北朝時代:2つのお寺を統合し、廬山天台講寺と改める。

南北朝時代(1368年)に、明導照源上人により2つのお寺が統合されました。ここは未確認なのですが、出雲路のお寺は無くなり、船岡山の方に統合されて名前が変わった、ということなんでしょうか。

この時廬山寺は円(円教=天台)・密(密教)・戒(律宗)・浄(浄土教)の四宗兼学道場となりました。

④応仁の乱で焼失。

京都のお寺は、たいてい1回や2回焼けています。街中で焼けてないと言えば千本釈迦堂くらいですかね。

⑤信長の焼き討ちを正親町天皇により免れる。

元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺とは同じ天台宗ということで、焼き討ちに遭うところだったんですね。実はこのお話には明智光秀が深くかかわっています。これは後で詳しく説明しますね。

⑥安土桃山時代:現在地(紫式部邸宅跡)に移転。

元亀2年(1571年)、焼き討ちを免れてすぐに、秀吉の都市改造計画により現在地に移ってきました。ということで、実際に邸宅跡にお寺が建ったのは安土桃山時代だったんです。なので、本堂の中を紫式部が歩いたとかいうことはありません。

⑦江戸中期:光格天皇が仙洞御所の一部を移築。

寛政6年(1794年)、本堂と御尊牌殿(天皇のお位牌があるところ)は御所の一部なのです。ということは、本堂に入ると昔の仙洞御所に入っていることになりますね(無理やり)!

⑧明治時代:明治天皇により廃仏毀釈から復興。

御黒戸四箇院という宮中の仏事を司っていた寺院4か所の1つでしたが、廃仏毀釈のあと復興したのは廬山寺だけでした。明治5年(1872年)延暦寺に附属することになりました。

⑨天台圓淨宗として現在に至る

昭和23年(1948年)、廬山寺が統合された最初のときに戻り、再び四宗兼学(円密戒浄)の道場となりました。詳しいことはわかりませんが、「天台圓浄宗」ということなので、天台宗の延暦寺(円密禅戒)とは少し違っているようです。

2.廬山寺を知るキーワード

ここでは、廬山寺を知るには欠かせないキーワードに沿って説明したいと思います。

①元三大師:「角大師」とおみくじ
②紫式部:廬山寺と邸宅の関係
③織田信長・明智光秀・正親町天皇:延暦寺焼き討ちと廬山寺の関係
④光格天皇:慶光天皇陵と仙洞御所移築

①元三大師:「角大師」とおみくじ

元三(がんざん)大師は延暦寺の座主という、天台宗トップの位を持つ大変偉い方ですが、法力もとても強い方だったようで「角大師」「魔滅大師」などと呼ばれました。「角大師」はお札として授与されているよく知られた図柄で有名です。その由来はというと、

この異様な角大師の護符の起源については諸説あるが、疫病が都に蔓延していた時に疫病神が良源を襲おうとした際、試みに小指の先に疫病神を宿したところ激痛が全身を走り、高熱を発したという。これによって厄病神除去のために自らの姿を鏡に映しこれを弟子に写しとらせたというものであり、その際に鏡に写ったお姿が角大師だと言われている。

廬山寺公式HPより

と、やはり相当強い法力で疫病にも立ち向かわれたのだと想像できますね!
→ 廬山寺の角大師の護符はこちら

また元三大師さんは今のおみくじの原型を作ったとして有名です。「元三大師様が観音菩薩様に祈念し授かった、五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型」(伝教大師最澄1200年魅力交流
コミュニケーションサイト「いろり」より)
とされており、徳川家に仕えた天海上人の夢の中で、元三大師がお告げをしたことでこの偈文百枚が見つかったことから有名になったということでした。今みなさんが引いているおみくじも元三大師さんの言葉から生まれたものなんですね!

②紫式部:廬山寺と邸宅の関係

廬山時の歴史に書いた通り、廬山寺は紫式部の邸宅をお寺にしたわけでなく、安土桃山時代になってからお寺がここに移ってきたのでした。そしてこの境内が紫式部の邸宅跡であると知られるようになったのは、昭和40年(1965)に歴史学者・角田文衛が紫式部邸であることを発表してからだったんです(以下「メモ」へ)

この地は紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔→伯父・為頼(伯父)→父・為時が住んできた邸宅でした。紫式部もここで結婚生活を送り、子どもを育て、そして「源氏物語」を執筆して、人生のほとんどを過ごしたのでした。

紫式部がこの本堂の中を歩いた、とかいうことではありませんが、たしかにこの地を踏みしめて生活をしていたことだけは間違いありません。門をくぐり境内を歩いた時に、そんなことを思いめぐらすのもいいですね♪

メモ

室町時代初めごろ四辻義成が書いた「河海抄(かかいしょう)」という本には、紫式部邸の位置が「正親町(中立売通)以南、京極(今の寺町通あたり)西頬(つら)、今東北院向也」とあり、角田文衛がそれらをもとに発表しました。→ 廬山寺公式HP

③織田信長・明智光秀・正親町天皇:延暦寺焼き討ちと廬山寺の関係

上の廬山寺の歴史⑤の中にもありましたが、廬山寺は延暦寺とおなじ天台宗ながら、焼き討ちは免れています。

それは今回の非公開文化財の展示にもあった「正親町天皇宸翰女房奉書」により助かったのです。正親町天皇が女房風に仮名交じり文で、「廬山寺は延暦寺とは違い戒律に厳しいお寺であるから焼き討ちには該当せず」と訴えられました。普段の正式な決まり事は漢文で書かれるのにくらべ、仮名交じり文で女房が書いたのように装われたのは、非公式な感じにすることで「角を立てず信長へのふんわりとしたお願いにした」のだということでした。

信長が廬山寺への焼き討ちを明智光秀に命令したのですが、正親町天皇がこれを書かれたおかげで事なきを得ました。その後、明智光秀はこちらに自分の念持仏を納めているところを見ると、廬山寺と明智光秀の間には何らかの関係があり、廬山寺が救われるよう動いたのでは、と思いたくなりますね。

④光格天皇:慶光天皇陵と仙洞御所移築

廬山寺は御黒戸四箇院という宮中の仏事を司っていた寺院4か所の1つとなっています。光格天皇の父親である閑院宮典仁親王がこの年に亡くなり、廬山寺にお墓が作られました。その年に光格天皇により仙洞御所が移築され、本堂と御尊牌殿(天皇のお位牌があるところ)となりました。

光格天皇は父親の閑院宮典仁親王が天皇になっておられなかったということで、「天皇」「太上天皇(上皇と同じ意味)」の諡号(あとで名前を付ける)を送りたかったのですが果たせず(尊号一件)、のちに明治天皇により「慶光(きょうこう)天皇」「太上天皇」が贈られました。よって現在、閑院宮典仁親王のお墓は「慶光天皇陵」と呼ばれています。

メモ

廬山寺の中はGoogle Mapsのストリートビューで一番奥の慶光天皇陵まで行くことができます

3.まとめ

①廬山寺の歴史

太字をつなげると、一番簡単な廬山寺の歴史となります!

平安時代中期に元三大師(がんざんだいし)が與願金剛院を開き、鎌倉時代中期に出雲路に蘆山寺を開いたこの2つのお寺を、南北朝時代に統合し、廬山天台講寺と名前を変えました。これが今の廬山寺の正式名となっています。

室町時代の末期に応仁の乱で焼失し、復興したばかりの安土桃山時代、織田信長の焼き討ちを正親町天皇が女房奉書を信長に書くことで免れました。焼き討ちを命じられた明智光秀は、なぜか念持仏を廬山寺に納めています。これは何を意味するか?いろいろ想像できますね!

安土桃山時代に、秀吉により現在地(紫式部邸宅跡)に移転して、光格天皇が父の眠る廬山寺に仙洞御所の一部を移築して現在の形となりました。明治の廃仏毀釈の中、宮中の仏事を司っていた4ヵ寺のうち唯一復興しました。初めの形通り、円密戒浄の四宗兼学道場となりました。天台圓淨宗として現在に至ります。

②廬山寺を知るキーワード

①元三大師:「角大師」とおみくじ
開山の元三大師は法力が強く、「角大師」「魔滅大師」と言われ護符も作られています。
また、おみくじの元を作った方として有名です。

②紫式部:廬山寺と邸宅の関係
紫式部の邸宅がそのまま廬山寺になったわけではなく、廬山寺がここに建ったのは安土桃山時代でした。

③織田信長・明智光秀・正親町天皇:延暦寺焼き討ちと廬山寺の関係
信長が明智光秀に命じた廬山寺の焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れました。

④光格天皇:慶光天皇陵と仙洞御所移築
光格天皇は父親の閑院宮典仁親王のお墓がある廬山寺に仙洞御所の一部を移築し、本堂と御尊牌殿となりました。閑院宮典仁親王は明治天皇により「慶光天皇」「太上天皇」を贈られました。

長かったですが最後までお読みくださりありがとうございました。廬山寺理解のお役に立てると嬉しいです。

参照:廬山寺公式HP・ウィキペディア(閑院宮典仁親王・光格天皇・廬山寺)

あや

ご先祖さんより京都・上京区に300年以上居住しています。細かな習わし事まで続けてきた先祖の行いを受け継いで、私も京都の年中行事やお祭が大好きです。京都に住んでいる方・京都が好きな方に、知って役に立つ、また他所では教えてもらえない京都情報をお伝えします。

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